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めざせポケモンマスターのCメロ考察

昔思ってたんですけど、めざせポケモンマスターのCメロ意味わからなくないですか?

ユメはいつか ホントになるって 誰かが歌っていたけど

つぼみがいつか花開くように ユメは叶うもの

「けど」で逆接なのに ユメ本当になってんじゃん!!!ってね・・・・

いや、ユメが叶う=ユメがホントになる じゃないの?みんなの認識は違うの?

この日記に対して後輩のけいえるが考察してくれました。興味深いので転載しちゃいます。

以下転載

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確かにその通りだと思いました。逆接だと、なんともしっくりこないですよね。

ちなみに俺も昔からよく歌っていましたが、これについては特に違和感などを持つことも無く育って参りました。言われてみて「そういえば」と目が覚めた心地です。それまで疑問に思わなかった自分に恥ずかしささえおぼえました。

「こうなったらもう、答えが出るまで徹底的に考えてみるしかないだろ」と勝手に血を騒がせ、暴走を始めた次第なのであります。

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で、はい。

ちょっとばかりググっ…いや、勉強してみたんです『けど』、

「けど」(「けれども」からの派生語群「けど」、「けれど」、「けども」)には、逆接の用法の他に"断り書き"の用法もある、ということらしいんですよ。ここに答えがあるんじゃないかなー、と思いまして。

では「けど」を断り書きだと捉えた時、どのように働いてくれるのか。

例えば

「もしもし、けいえるさんですか?」

「はい、けいえるですけど」

の『けど』は

「けいえるですけど、あなたは誰ですか、何かご用ですか?」

と、相手の返答を促す表現を予想させる言い方であり、「けど」のおかげで、「何のご用ですか」が省略されていても、そのニュアンスが伝わるのだとか。

……こう考えると

「~~ですけどなにか?」

という言葉遣いがどっかで流行ったのも、断り書きの「けど」のあとに不必要な「なにか?」を、あえて付けることが面白いからなのかなー、などという推測もできるわけで。あ、これはどうでもいいことですね。

ま、以上ように、わざわざ言わずとも伝わる、内容を予想させる、もしくは婉曲的手法を用いる、そのような場合に、断り書きの「けど」が活躍するわけでございますね。

◆◆◆◆◆◆◆◆

以上の知識をもとに問題の一文を解釈すると

「ユメはいつか ホントになるって 誰かが歌っていたけど」

「つぼみがいつか花開くように ユメは叶うもの」

の間に、何か隠されたメッセージの存在を感じとれます。「けど」が婉曲的ニュアンスを含むからです。

そして「婉曲的に何かを伝えている」と仮定したならば、そのメッセージはおそらく歌詞を書くにあたって強烈にタブーであったことが予測されます。

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では

「ユメはいつか ホントになるって 誰かが歌っていた」

ことへの一番のタブーは何か。

それは

「現実的にはそうじゃないことが多い」

というリアリズムを帯びたメッセージ、すなわち一般論ではないでしょうか。

この歌詞はポケモンマスターを夢見る子どもの視点で書かれているわけですから、リアリズムは相反する要素であり、最もキツいタブーです。

あれ、でもここで一つの疑問点が生じます。

「夢見る子どもの視点で書かれている」なら、夢見る子どもの中に、一般論の概念が果たして存在するのでしょうか?

この一文は、本当にポケモンマスターを目指す子どもの視点から、書かれているのでしょうか?

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ここで歌詞の全体を俯瞰してみます。するとあることに気付きます。

「おや、この歌詞よく見れば、メロディーの部分だけ浮いて見える」

それもそのはず、

「必ずGETだぜぇぇ」

「きたえたワザで勝ちまくりぃぃ」

「ゼッタイなってやるぅぅーー!!」

という子ども視点の歌詞の中に

「いつでもうまくいくなんて保証はどこにもない」

なんて言葉があったら、「あらちょっとカッコイイじゃない」って思いますよね。あれ、思わない?

ともかくこの一文は、明らかに他の文面と違い、リアリズムがしっかり内包されている一般論です。そのあとに「ゼッタイなってやる」と叫ぶなんて、矛盾してると思いませんか?

他のメロディー部分も同様、浮いて見えます。

「きのうの敵はきょうの友って古いコトバがあるけど」?

ガキが「そんな古いコトバがあるけどね」なんて言うのもおかしい。

ふむ、そう考えると、大人に比べて記憶の蓄積が圧倒的に足りないはずの子どもが

「誰かが歌っていた」

だなんて、果たしてそんなシブいこと言えるでしょうか?

これらの矛盾を解決するには、ある仮説が必要です。

そう、

「もしかしたら、メロディー部分の歌詞だけ、大人になった未来の主人公からの、メッセージなのではないか」

という仮説が。

◆◆◆◆◆◆◆◆

以上の仮説を正しいものとした場合、歌の真相が見えてきます。

この他にも色々考察の余地はあるのですが、それをいちいち説明していると長くなりすぎてしまうので、とりあえず俺の出した一文の解釈を手っ取り早く載せてしまうと

「ユメはいつかホントになるって誰かが歌っていたけど、(一般的には『そんなことないよ』って言う人が多いのかもしれないね。……しかし歌の通りだったんだ、)つぼみがいつか花開くように、ユメは叶うものなんだよ」

みたいなかんじに、なるのではないでしょうか。

つまりね、未来の主人公は、ユメを叶えたんだろうね。だからそう言えるんだろうね。

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以上を受けて、この一文に違和感を持ってしまう理由として、自分の勝手な結論を申しますと

「『けど』を『逆接』であると捉えて、本質的には『けど』の接続先ではない後の文に、『けど』がかかっているものだと解釈したから」

となるのかなぁ。それに

「子ども視点の歌詞のはずなのに、なんかカッコイイこと言ってしまっている」

こともあいまって、二重の違和感が演出されているのでしょう。

もちろんこれが正しいというわけでもない、あくまで仮説ですが、文学表現の解釈に絶対正しい意見なんてありえないですし、読むほうはもちろんでしょうが書くほうもそろそろ疲れてきたんで、まぁこのへんで考察を終えておきます。

好奇心をちぱちぱさせてくれたわさらーさんに多謝。

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とのことです。ふむふむ。

この解釈ははじめてだ。

でもやっぱ変なんだよな・・・

まず、「夢はなかなか本当にならない」という一般論がタブーってのがちょっと。

そもそもその次の文でそれを否定してるから、結局は本当になるんだよって歌詞では言ってるし。それならいいじゃんって思うんだよなぁ。

そういう意味を伝えたいんだったら、

「ユメはなかなか本当にならないって誰かが歌っていたけど つぼみがいつか花開くように ユメは叶うもの 」

こうの方が自然でいいね、わざわざ行間読ませるのはいくらなんでも回りくどすぎる・・・。不自然だよね・・・。

なんかもう難しく考えないで純粋に作詞者がテキトーに作詞しすぎたとしか思えなくなってきた

>作詞家調べてみたらコピーライターやっててこれが初作詞っぽいよ。

らしいし・・・

他の考察

>「夢は叶うのかーどんなふうに叶うんだろ」と思ってたけど、成長して「そっか、夢はつぼみが開くように叶うのか!」と悟った。

つぼみが開くのは自然でありある日突然起こることだから、夢も努力していれば自然にしかも突然叶う。

実際は努力したから叶うとは限らないけど、子どもに夢を与えるアニメだしねー。

これに関しては、そうか、そうなんだ~と知った割に、「叶うもの。」と、なんか断定口調なのが気になります。

「つぼみがいつか花開くように」っていう言葉からは急に突然叶うというよりゆっくり叶っていくという感じを受けますが・・・「いつか」って言葉も、そういうイメージな気がします

>間違ってないんじゃないかなー 

ユメはいつか ホントになるって 誰かが歌っていたけど (その通りで、) つぼみがいつか花開くように ユメは叶うもの

みたいなかんじか

これだとやっぱなーんか変なんだよなぁ・・・・逆接じゃない「けど」の用法ってことか・・・・ (>、「けど」は「けれども」の砕けた形で、接続助詞として前置きや単純な接続の意味にもなるようです。 リンク先(Yahoo辞書)にも記述がありましたー。子供は語学の天才ですから、案外問題ないのかも…。 http://is.gd/c2tN6 @dosannpinn さんより)

なんかその後のユメ「は」叶うものの「は」も、前の文を否定してるような感じするし (「は」には「いくつかの題材の中からの一つを取り上げて提示する」機能(提題)がある)

ただ、実際のところ一番正解に近いのはこの考察なのかも・・・

>サトシに喋らせてるイメージで口語の文語が半々の歌詞を書いたもんだから意味の取りにくい文章になったんだろう

これもアリですね!

まぁ、正直なところ、どうでもいいですね。僕が不思議なところは、今まで誰もここ変じゃね?って話題にしてくれなかったことですねぇ。。w 子供の時は、世間ではこれは変じゃないのかもなぁって思ってたのですが。